金澤の職人と家をつくるわたしたちは、
もっとこの街の文化や歴史を学ばなければいけない。
家元の「金澤文化部」は、
そんな想いからスタートした活動です。
もっとこの街の文化や歴史を学ばなければいけない。
家元の「金澤文化部」は、
そんな想いからスタートした活動です。
家元の社員が訪れた“金澤”をスナップとともにお届けします。
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加賀藩御用菓子司 森八
森八家の始祖・亀田大隅の胴丸に描かれていた紋章・龍玉を商標に390年。森八は、菓子づくり一筋に歩み続けてまいりました。
初代である大隅宗兵衛は、河北郡森本町から金沢城下紺屋坂に居を移し、屋号を森下屋と称し名を八左衛門と改めました。
城下の大火で藩主より替え地を命ぜられた2代目八左衛門は尾張町に移り、寛永2年(1625)に菓子屋を創業。
3代目八左衛門が藩主前田利常公より町年寄役を命ぜられた時より、代々町年寄、銀座役を勤めました。
藩主より江戸表に召された3代目八左衛門は、藩主利常の創意により小堀遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした、
名菓「長生殿」を世に生み出しました。
文久8年(1863)11代目八左衛門の時に家柄町人として苗字帯刀をゆるされ、「森下屋」から森下と改め、
明治2年(1869)には屋号を「森八」と改称しました。
13代の夭逝で12代目八左衛門は長女を14代目としましたが、後継者がなく、
明治44年(1911)10月、姻戚関係の中宮茂吉に家業の一切を譲ることになりました。
15代当主中宮茂吉は、翌年10月に合名会社森八を設立。
大正、昭和と激しい時代の流れの中、東京支店の開設など順調に近代企業への歩みをすすめてきました。
第2次世界大戦勃発による休業、終戦、16代中宮茂一の戦死という最悪の状態から、
職人の復員と原材料の統制緩和により昭和24年商売を再開。
その後の著しい経済復興とお客様の変わらぬお引き立てにより再興。
金沢市内、富山、東京に直売店を出店、41年本社屋の建設、翌42年株式会社森八への改組。
52年無公害工場の新築。平成4年にはさらに地球規模で考えた新工場を完成させました。
初代である大隅宗兵衛は、河北郡森本町から金沢城下紺屋坂に居を移し、屋号を森下屋と称し名を八左衛門と改めました。
城下の大火で藩主より替え地を命ぜられた2代目八左衛門は尾張町に移り、寛永2年(1625)に菓子屋を創業。
3代目八左衛門が藩主前田利常公より町年寄役を命ぜられた時より、代々町年寄、銀座役を勤めました。
藩主より江戸表に召された3代目八左衛門は、藩主利常の創意により小堀遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした、
名菓「長生殿」を世に生み出しました。
文久8年(1863)11代目八左衛門の時に家柄町人として苗字帯刀をゆるされ、「森下屋」から森下と改め、
明治2年(1869)には屋号を「森八」と改称しました。
13代の夭逝で12代目八左衛門は長女を14代目としましたが、後継者がなく、
明治44年(1911)10月、姻戚関係の中宮茂吉に家業の一切を譲ることになりました。
15代当主中宮茂吉は、翌年10月に合名会社森八を設立。
大正、昭和と激しい時代の流れの中、東京支店の開設など順調に近代企業への歩みをすすめてきました。
第2次世界大戦勃発による休業、終戦、16代中宮茂一の戦死という最悪の状態から、
職人の復員と原材料の統制緩和により昭和24年商売を再開。
その後の著しい経済復興とお客様の変わらぬお引き立てにより再興。
金沢市内、富山、東京に直売店を出店、41年本社屋の建設、翌42年株式会社森八への改組。
52年無公害工場の新築。平成4年にはさらに地球規模で考えた新工場を完成させました。
加賀藩御用菓子司 森八
920-0912
金沢市大手町10-15