Profile
茶道裏千家 今日庵業躰部講師
奈良 宗久
1969年、十代大樋長左衛門の次男として金沢に生まれる。
1995年に裏千家今日庵へ入庵。宗家直下の伝承者として認められ、
業躰部講師として茶道の指導に全国を飛び回る日々を送る。
現代の家は、その“清”が希薄になっている。
茶室といえば狭くて小さい空間を連想します。
それは小間(こま)ですね。千利休が2畳ほどの空間を茶室にした。それ以前は6畳または4畳半が主流でした。さらに前の室町時代までは広い板の間を茶室にしていました。広い空間に置き畳を敷いて、屏風で囲んだりしてお茶を嗜んだ。みなさんのイメージする茶室空間が生まれたのは、その後の桃山時代からですね。日本人の精神性が大きく変わった時代に、千利休が茶室や道具をどんどん変えていきました。楽茶碗や竹の茶杓を置いてみたり、手桶を水指しにしたり、魚籠を花入れに見立てるなどして、茶の湯という非日常の世界に日常のものを採り入れていったわけです。こうして信長や秀吉や千利休の時代を経て、茶の湯は江戸時代になって庶民に広く普及していきます。とりわけ金沢の浸透度はすごかった。武士や商人や一般の人までお茶を愉しみ、お稽古までする。一般的にお茶の盛んな土地では、やはりお殿様をはじめとした上層の人に限るんです。金沢の町屋には江戸時代から近代にかけてつくられた茶室が200以上残っています。全国を見わたしてもこんな街は他にありません。客人が来てお茶を出すときも、他の土地では煎茶ですが、金沢ではお抹茶が出てくるでしょ。独特だと思います。さすがは百万石の国なんですね。その影響力や浸透度は他を圧倒しています。
金沢にはおもてなしの文化があると思います。
その象徴がお茶の文化ですね。亭主は来客に備えて何日も前からしつらえをはじめます。露地のところからすべて掃きそろえ、庭もきちんと剪定(せんてい)する。昔の人は、それこそ庭の葉の1枚1枚を拭くくらいやった。一事が万事ですね。季節によっては畳を張り替えたり、樋や垣根を新鮮な青竹にしたりもしました。茶の世界では”清浄”ということがやかましく言われます。客人のもてなしも、粗を排除する…すなわち清浄するという考え方なんです。千利休は『和敬清寂』(わけいせいじゃく)という言葉を残しています。現代の家にはその”清”が希薄です。365日の便利さだけを追求した生活空間になっています。たとえば五節句といわれる節目の行事が一般家庭から消えている。それを行う場が家の中にない。本来は節目の儀式によって身を正し、日々の汚れを払い、清浄して次へ向かうわけです。ですから節句の折には床の間に床飾りをしたいのですが、床の間自体が現代の家にはない。今回のテーマの金澤家屋には、床の間のある和室はあってほしいですね。単に応接間があるだけではなく、客人にお抹茶を出して、和菓子を美味しくいただいて、床飾りを崇めるという。便利な日常のための空間だけではなく、ちょっとした非日常を愉しむ場所がある。それが金沢らしい家かもしれませんね。
昨年ご自宅を新築された。設計のコンセプトは?
この自宅の場所は金沢の美観地区なんです。景観に反目したりロケーションを損なう家は建てたくなかった。街に融けこむ外観はもちろんですが、たとえばこのリビングの壁を見てください。本物の石垣をそのまま壁の一部に使っています。300年以上前の延宝年間の地図を見ると、この場所には川が流れていました。金沢城の惣構堀です。その石垣を埋めるのではなく、そのまま残したわけです。金沢の景観や歴史を壊すのではなく、家に活かしていこうというのがコンセプトのひとつですね。おかげで構想から3年もかかりましたよ(笑)。家全体の佇まいも金沢らしい情趣を大事にしたいと思いました。金沢の家は、比較するなら京都の家よりしっとりとした風情があります。祇園などの古い街並みは美しいのですが、あちらは日本を代表する観光都市ゆえに、どこか力が加わっている。造られて残されている感じがするんですね。対して、金沢は外部の影響を受けていない。無理のない日常のなかで育まれたものがある。人工的なものではなく、雪や川といった自然とあいまって落ち着いた時間がただよっていますね。イメージとしては、雪の舞う東山や主計町のしっとりとした街並み。ですから雪とどう付き合うかを考えて建てた家もまた、金沢らしくていいなと思うんです。